あなたはどれくらい言っている?パートナーへの「ありがとう」
付き合いが長くなると減るもの。
愛と感謝と気遣い。
みなさんの家庭はどうでしょうか?
私は自分を振り返って見ると、感謝の頻度が減ってしまったように思う。
ふとした時の「ありがとう」を言いそびれていると感じる。
昔なら言っていたようなタイミングで、「ありがとう」が出てこない。
妻もそれは同じで、恐らく無意識的に「ありがとう」は減っていっている。
付き合いが長くなると、お互い相手に「察して」もらうことを望むようになる。
「それくらいわかっているでしょ」、と。
それもそうではある。一面的には正しいと言うか、当然の流れと言うか。
付き合いが長くなっているのだから、お互いのことは以前より知っているはずだ。
「ありがとう」も何度となく同じ場面で繰り返し交わされてきた言葉だろう。
もう言わなくてもわかっているだろうと、タカをくくるのは仕方のないことかもしれない。
「察して」もらうことを望むようになると、お互い自分の大変さのほうにばかり目が行くようになる。相手の大変さに、目を瞑ってしまう。
察してもらいたいはずなのに、相手を察する力を失う。
私もそうだ。以前より、余裕がなくなってしまった。
自分に余裕がなくなれば、相手を察する力は失われていく。
仕事で疲れ、家に帰ってきても、明日に回した仕事のことを考え、気持ちの余裕がなくなっていく。
妻も同じだ。
今妊娠中の妻は、体調の悪さに苦しみ、それと同時にこなさなければならない家事に苦心して、余裕がなくなる。
子供が生まれれば今度は育児が待っており、寝る暇もない日々が待っているかもしれない。
そんな余裕のない人々に「ありがとう」の言葉はすごく刺さる。
自分の大変さしか見えなくなっている人たちにとって、「自分ではない誰か」からの「ありがとう」は、「自分の大変さを相手にわかってもらえている」と言う思いにつながる。
毎日繰り返し作ってもらえる食事に「ありがとう」があれば、日々同じことを繰り返しやる義務感から多少なりとも解放されることだろう。
そして僕は男と言う立場からの話で申し訳ないが、ふと思ったことがある。
「お仕事お疲れ様」という言葉を職場以外で聞いたことがないな、と。
勿論、「今日も仕事をしてきてくれて、ありがとう」と言う言葉はなおさらない。
そもそも、言われたいと思ったこともなかった。
仕事に行くのは当たり前で、お金を稼ぐのは当たり前で、疲れているのも当たり前だった。
家事に対する感謝や労いの言葉はあるべきだと思うのは大方の見方だ。
多分それは、直接自分にかかわりのあることで、それを誰かがやってくれているのがはっきり目に見えるから。
だけど仕事も同じだ。
仕事で稼いだお金は家族のものだし、その疲労は家族のための疲労だ。
家事で洗濯した服は家族のものだし、その食事は家族のための食事だろう。
僕の知る限り、「お仕事してきてくれてありがとう」を述べる妻はほとんどいないんじゃないかと思う。
僕もそんなこと思いつかなかった。
だけどきっと言われるようになったら、毎日の疲労から多少なりとも解放されるのではと私は思う。
それだけ「ありがとう」の力は強い。
「ありがとう」を言う人は、また人から「ありがとう」をもらえる。
家事をしてくれたことに、仕事をしてくれたことに、今日も横にいてくれることに。
感謝の出来ない事象などなにもない。
日々生きるうえで、全ての事柄に声に出して「ありがとう」を言う意識が、自分達の生活をより良くしていくのではないだろうか。